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論功行賞する人間が死ぬ=士気がだだ下がりで戦にならないというお話には膝を打ちました。
加来先生ありがとうございます。今川義元大好きな私にとって貴重な話しが聴けて良かったです。
加来先生の話はその時代に行って見てきましたって感じで話すので興味深いですね
加来先生有難うございます。今川義元大好き人間としては復権に感謝です。長い間、誤解されて来た義元像。戦国時代、最も天下に近い男であり、信玄にも信長にも師匠と仰がれる名将です。
結末で評価されるのは酷ですよね。明智光秀しかり。
一度、NHK大河ドラマの主役で観てみたいですね😊
今川義元の失敗の本質の分析はいかに。放送が楽しみになりました。中西さん本当によく勉強されていて、また控えめでもあり、頭が良い方ですね。
義元の死後、後を引継いだ氏真御館様の資質は・・・だが、後に徳川家康を頼り江戸幕府で高家待遇として生き残り、今川家の命脈を残した点は偉い。
統治者としては義元に劣るけど文化人としては細川幽々斎に勝るとも劣らない一流文化人ですからね
毎回楽しみに拝見しています。加来先生のおっしゃるように、学校での授業は、点(つまり歴史的な拝啓や意義はともかく、いつ・誰が・何をしたという事項)だけを学んでいて、この結果、歴史は暗記で点数を取る科目と考えられていた所以です。点と点から、もっと立体的に、俯瞰したうえで考えると見えてくるものがあるのですね。ありがとうございます。
加来先生の歴史の話は本当に面白い。あと分かりやすい!!アナウンサーの方も聞き上手だし、進行が上手いから話がすっと入ってくる^ ^素顔の履歴書も全部見てます(^^)
確か総大将が戦場で討ち取られた例は今川義元と龍造寺隆信の二人だけだったと記憶しています。
北条氏康が小弓公方を討ち取ってるぞ
武田元繁、陶晴賢
扇谷上杉の上杉朝定さん、美濃の蝮、斎藤道三さんも戦死です~
有名な話しで、信長は義元の刀に「義元捕縛時彼所持刀」と刻んで生涯持ち歩いていたとか。それほどに信長にとっての今川義元は強大な存在だったのだと思います。
三国同盟は戦国の世では珍しいお互い三者の本拠地が隣接しているのも面白いんだよねあと、義元以外で戦場で討ち取られた大名は龍造寺隆信もそうですね
授業では桶狭間で数で劣る織田軍に討たれたとしか言われてないから弱小将軍みたいなイメージが強く残されてるんだよね。専門家から聞く話は面白い。
足利将軍家と同じ家門の名家だからそれも大きく義元の力の一部でしょう 信長の凄い所は二度と奇襲攻撃はしていない、桶川は運が良かったと信長自身が良くわかっていた
3:25 ここで加来先生の言ってる「運良く鉄砲伝来の時期に行き合わせた信長が天下布武をやった」という視点は重要だな尾張の海運に支えられた豊かな収入、鉄砲の製造拠点に近い本拠地、いくつかの幸運が重なったことで信長の軍事力が突出したもし鉄砲が伝来していなかったら諸勢力の軍事力はもっと拮抗していて、群雄割拠の時代が長く続いた可能性が高いそしてその群雄の中で甲相駿が中心的な役割を果たしていた可能性も高い
うーん、まあいろいろと研究された方の話を見ていると、割と敵が来そうなルートに人員配置はしてたみたいだからなあ。本当にそこまで油断してたかどうかまではわからないと思う。
信長は当初は今で言うヒットアンドアウェイ戦法で今川軍を撤退させる事が目的だったが、運良く討ち取る事が出来たのが今の説
逆に浅井との姉川の合戦や本願寺との石山御坊の戦いとかで織田信長さんがターゲットとして戦場で狙われてますよね~たぶん織田包囲網って持久戦を続けて織田信長さんが戦場に来たときに合戦や奇襲で織田信長さん個人の命を狙うという作戦内容だったんじゃないかな~?それを織田信長さんも感覚的に知ってたからこそ、武田信玄さんや上杉謙信さんといった合戦強者と雌雄を決することを最期まで避け続けたような気がします~
信長包囲網にそんな高度な作戦はできないでしょうね。精々狙撃や暗殺を狙うぐらい。所詮各勢力の寄せ集めだから。あと上杉謙信や武田信玄と戦わなかったってなんで戦う必要があるの。信長は当初は両者と同盟してるし、敵対した時でも自領のそばの敵対勢力を無視して遠くの強い敵に戦仕掛けるなんて非効率やるわけない。
今川義元「我が矛先には魔物だろうと鬼だろうと敵うまい!!」
毛利元就の初陣が、西の桶狭間と言われる有田中井手の戦いで、敵の総大将、旧安芸守護家の武田元繁を討ち取っていますね。こちらが桶狭間よりも40年以上も前なので桶狭間こそが東の有田中井手と言ってもいいんでしょうが、知名度に雲泥の差があります。
たしか武田元繁さんの一族から、安国寺恵瓊さんが出たという話を聞いたことありますし~武田元繁さんも今川義元さんみたいな凄い大名だったのかも?知れませんね~
今回の質問、私もずっと不思議だったので教えて頂けて嬉しいです
今川義元さんはハンパなく凄い人だったと思うんだけど、大河ドラマで見たいのは、その息子の今川氏真さんですね~徳川家康さんの少年時代の学友で、蹴鞠の達人にして和歌も超一流のスポーツマン兼文化人、今川家が滅んでからは鎌倉に京都とお気軽な諸国漫遊の日々~最後は今川家を裏切り滅ぼした当事者である徳川家康さんに頭を下げて徳川家旗本高家筆頭としての地位を得て晩年を過ごすって凄くドラマチックだと思うんですが~みなさん、どうでしょうか~?
自分も氏真の大河見てみたいです!尊敬している父が急に戦死し、頼りにしていた仲のいい部下が離叛、同盟相手に裏切られお家滅亡。色々なところを放浪し、父親の仇の前で蹴鞠を披露する。色々あっていつのまにか離叛した元部下が天下人になってた。でも高家になって天寿をまっとうしている。とても深いテーマになるし、サラリーマンに刺さると思います!
元静岡県民ですが、今川義元をリスペクトしてます。領土の3カ国に加え、家臣筋の北条五ヶ国、姻戚の武田信玄二ヶ国、上杉も今川の仲裁に従った事から北陸2ヶ国合わせて12ヶ国以上が今川派の勢力範囲とみなす事も出来、東国の覇者と言えると思います。今川氏真も優秀な人材で、突然義元と雪斎のツートップと主だった重臣を桶狭間で失った事で武田信玄に負けてしまいましたが、義元だけであれば、雪斎の意見を聞いて他重臣の力を借りて、家康を先鋒に、武田信玄に勝った可能性は高かったと思います。敗北後も良き敗者として生き抜いた事は、何もせず滅んだ豊臣秀頼に比べると、極めて優秀な逸材だったと言わざるを得ないと思います。
主観ですよね。信玄が義元を兄のように慕ったとか。
加来先生は詳しいですね☺
中西悠理さん元気そうで何より
義元公は影武者を配置していなかったのでしょうか?仮にそうなら油断があったのかもですね。しかし偉大な先輩を破った信長公もわずかな護衛しか傍に置かなかったため、本能寺で討たれてしまいました。失敗は繰り返されたということでしょうか・・・。
同感です。何とも皮肉な巡り合わせですね。
当時、他家と比べて今川義元さんの外交能力はピカ一だったのは紛れもない事実~三国同盟もそうだろうし、武田信玄さんと上杉謙信さんの川中島合戦を仲裁したり、織田家と人質交換して徳川家康さんを今川家に迎えいれたりと~四方八方に外交交渉できるコネクションを築いていたことが想像できます~しかも、その交渉事を全て今川家の有利に進めてしまうその手腕は戦国随一の見事なもの~天下人直前の秀吉さんや家康さんに匹敵する実績を残したと言えますが、当時の今川義元さんの領国、官位、幕府の役職を考えると外交コスパがハンパなさ過ぎで、外交の怪物と言っても過言でないと思います~その外交ツールの重要なファクターとして、公家装束や豪華な御輿という今川義元さんの身嗜みが当時の地方武家社会の大人たちの度肝を抜くような効果があった可能性がありますよね~それはもしかすると、織田信長さんが若い頃うつけ装束で駆け回っていたことが黒歴史として恥ずかしくなるような、別次元の政治的パフォーマンスだったのかも?知れません~
@@うちでのこづち-x6cなるほど、確かに太原崇孚さんは、今川義元さんのブレーンとして別格だったと思います~川中島合戦で上杉、武田両家を調停した際は彼の死後ではありますが、小説のように今川義元さんが彼の遺言どおりに動いた結果なのかも?知れません~ただ彼の死後、今川義元さんが自ら朝廷に働きかけて後奈良天皇を動かし、宝珠護国禅師と諡されたことは他の戦国大名と一線を画する行動のように感じます~そんな貢献した部下に対する真摯な姿勢が岡部さんや朝比奈さんという今川義元さんに命懸けで仕える男たちを生んだのではないでしょうか~?そういった今川義元さんの人柄を踏まえると、味方にした他勢力からは恨まれて包囲網を作られたり、部下からも裏切られてばかりの信長さんよりも遥かに外交調略能力は高かったような気がします~ただ、桶狭間の合戦においては信長さんよりも合戦能力と戦運が無かったために残念ながら首を取られてしまうので~結局、戦国時代は生き残ることこそが全てですから、どんなに優れた指導者もサバイバル能力がなければ露と消えていくだけなんですよね~
なかなか興味深い義元論で面白いと思います。
ホンマにみる価値のある部分は・・・8:54 ~ 時間のない人向け。
「総大将が討ち取られると、評価される人がいなくなるから逃げる」間違いではないが、「評価」を「恩賞」とした方がより正確だと考える。戦国時代、武将・兵員が参陣し、戦場で奮闘するのは、戦後の恩賞を期待してのこと。恩賞=領地・金銀占領した敵地で略奪行為が許されることもあった。総大将が死ねば、その時点で恩賞は絶望的になるから、総崩れになるのは当然。別の言い方をすれば、恩賞を与える側と恩賞を貰う側=主従、とも言えて、その契約は、総大将の討死で消えてなくなるわけだ。自分の命を賭けて恩賞を狙う=ハイリスク・ハイリターンの最たるものただし、「正義」「恩義」「友情」など形而上思考で戦をする武将も存在した。それも事実だろう。
そんな義元を討った信長の凄さよ…。😅((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
その信長が恐れた謙信、信玄の凄さよ😁
@@天誅の名人 武田信玄「わし強過ぎかの」上杉謙信「信長も存外弱いな」
人生のほとんどは運であると結論が出ています
義元が一流の文化人であり武将としても初代の海道一の弓取りであったことは常識だ。まあ家康と紙一重の運の差だったな。
総大将が合戦中に敵にやられたのは今川義元と肥前の熊くらいやな
首を取られた大将は、だと思います~合戦中討たれた大名は結構いるハズですよ~
ううむ、将棋で王を取られても負けを認めないで戦い続ければ勝てるんじゃないかみたいな話で面白い。
今川義元の大軍が隘路を通って兵站が伸び切っていた。薄くなっていた義元の本営をピンポイントで信長軍が襲った。おりしも天気は雨。義元には不運としか言いようがない。…ということだけど…ただ、この時代に敵将の位置を探り情報戦に長けていた信長は、やはり一枚上としか言いようがないですね。
結局、そうなんですよね。戦場は何が起こるかわからないーその鉄則を義元と側近は無視していたようです。
某大河ドラマで、人質時代の家康が雪斎から教えをうけるシーンがありましたが、実際はどうだったのか気になります。
桶狭間の戦いで完全に無視されている視点があります。それは桶狭間の戦いの時点で既に信長と敵対関係にあった、美濃斎藤氏がこの戦いにどう関わったのかという視点です。信長は桶狭間の戦いの翌月には美濃を攻めていますし、普通に考えれば義元と結んでいたか結んでいなくても漁夫の利を狙っていたかです。いずれにしても信長の軍勢のかなりの数は美濃方面に拘束されていたはずで、桶狭間の戦いにおける信長の戦術に大きな影響を及ぼしているはずです。
信長軍は道三に備える為、義元勢を屠ったあと超高速で清須に帰還したのですかね。なんか疾風ウォルフみたいでかっこいいですね。
道三死んでる
駿府城は実はサンドイッチ状態のお城です。今川の遺構、次の豊臣の遺構、今ある駿府城の完成形は明治維新まで続く徳川家康が祖師+今川人質時代の遺構の最終の形なんです。
サンドイッチマン、サンドイッチマン、俺らは街のお道化者~♪🏯
姻戚関係を使って駿河・甲斐・相模の三国同盟を構築し背後を固めた発想はもっと注目されて良いと再認識した。信玄が義元を兄と慕っていたので追放した実父・信虎を引き取ってもらったことにも繋がる。一方、駿河では軍師・禅僧の太源雪斎が松平元康を鍛えたことで、「駿河が人材教育センター」と言っても良い。動画の後半で説明のあった「負け戦」概念は自分の論功行賞を誰がしてくれるのか、以外に「粘着気質が無い特性」「上がダメなら自分らが奮起する意識が欠如」があるのではと思う。近代でも自分らが有権者としての自覚が希薄、特定の国会議員に「上手く(何とか)お願いしますよ」との「人任せ・上役任せ」で真の民主政治が発達しないことに繋がる。
本隊は沓掛、本陣は桶狭間。義元は桶狭間に何人くらいの兵を率いていったのですか?
将棋と同じ、王が詰めば負け。
ホンマに義元は桶狭間で酔い潰れ寝ている隙に撃ち倒されたのかな?
そんなわけないでしょ
今川義元は、同時代の織田、北条、上杉、武田と比べがちだが、名将だと思う。武田、北条も警戒して人質を出したり、政略結婚、条約同盟を結んでた程。又京都朝廷の繋がりも有り名門中の名門。他の大名は下剋上の謀略、暗殺、裏切りの大名になったが、今川氏は最初から守護大名です。本来なら朝廷、室町幕府の守護警護を任せられる位です。又幼少期の家康に、家庭教師として雪斎長老つけたり、縁戚の瀬名姫を嫁がせたほど、先を見る目が有ったと思う。
将軍、足利義教さんに今川氏の天下一苗字を認められて以来、足利将軍家と同じく嫡男以外の男子は僧籍に入る伝統ですし~一門とされる関口氏や瀬名氏が今川氏を継ぐためには、今川氏の断絶に幕府の許可と、他家から養子入りするのと同じくらい困難だったようですから~逆に、今川という名への愛着は薄れると共に今川氏を支える一門衆である感覚も消えてしまった可能性はあります~実際、政略結婚で今川氏と血縁関係を結んだ武田氏や北条氏といった余所者の大名家の方が、義元さんに近しい今川氏一門として幅をきかせていたようですし~そんな中、今川の支柱たる義元さんが討たれたものだから、当主氏真さんを支えるよりも、さっさと見限る方に心が動いちゃったんかも?知れません~そう考えると、天下の将軍家を後ろ盾に、お家騒動を抑止する仕組みを追求するのも、良かれ悪かれだったですね~悲
徳川家康からしても直属の兄弟子みたいなもんですもんね、雪斎和尚の弟子として
桶狭間は本当運悪かったな… 信長の戦術の凄さがわかるね
運が悪かったというか…信長も天気見て行動したでしょう
@@j3391晴れていたら信長は成すすべがなかったでしょう
織田 今川 戦争は信長公記によると織田2勝今川1分けで桶狭間迎えたかつ 今川義元は天下狙った訳じゃないでしょうそこらへん触れてない
主に魅力があるから優秀な参謀がつくのです。義元がいかに凄かったか。
あれ、甲相駿三国同盟って北条がピンチから抜け出すために武田を頼り武田が北条今川の両者の間を取り持ったんじゃなかったっけ?
センゴク権兵衛の桶狭間戦記読んで義元イメージ変わった、漫画だとイケメンやし
最近その漫画読んだけど義元かっこよすぎでしたね
総大将が首を取られる・・・・ほかには・・・竜造寺 隆信・・・ぐらいか。
今川義元は桶狭間にどれだけの兵を展開出来たのか?2万5千全軍を展開できたのですか?おねがいします。本隊は沓掛。本陣は桶狭間ですか。信長はあの辺りの地形は熟知していたのですか?桶狭間に展開出来る兵はどのくらいかは分かっていたのかな?それと大髙は。糧道を断つために4つか5つ、付城があったと何かの歴史雑誌で読んだような。今川の大軍が来たため鷲津、丸根を残し兵を引いていたとか、うろ覚えですが。確認おねがいします。それならどうして鷲津、丸根に兵を残していたのか。それで家康は無血で兵糧入れが。とか。
今川が何故討ち取られたのか? 答えは「坊やだからさ」!!
徐々に儂の評価が変わりつつある...
義元の様な凄い男を打ち取った信長が凄すぎただけ、その後の活躍も頷ける。桶狭間の結果に運も不運も関係ない。
じゃあ、未曾有の豪雨が無かったら信長どうしてたと思います?
夜襲かな?もしくは信玄上洛時の家康パターン?義元は是が非にも信長の首がほしい訳ではないだろうし。
織田信秀、斎藤道三、今川義元を3週連続で取り上げたのはいい企画だと思いますよ。悲劇の歴史人物「小栗上野介」「江藤新平」もお願いします🙏
日本人の性格だったとか、戦(いくさ)のルールだったとかよりも、総大将が打ち取られるような時は相当な負け戦であり、また。総大将は絶対的な権力者だったからだと思います。
織田家は尾張統一したばかりで今川との戦いで動員出来る戦力も3000人ぐらいだと思う。今川は三国同盟中で2万人から2万5千は動員出来たと思う。やっぱり今川の気の緩みが原因だと思う。武田家が織田家に極秘に手助けしたとかって説はムリがある。武田家が駿河に進軍したのが数年後なんだから。
なぜ無事に信長が撤退できたのが未だに謎?今川軍は範囲砲撃してる状態で奇襲は理想的だけど、逆に討ちった後に範囲砲撃を受けて脱出できない。今川としては信長を討ち取れば最大の功績!先鋒の松平軍が退路の確保かな?、でその後の織田と徳川同盟になる。事前に退路の確保は、松平として成功失敗してもどちらでもいい、なんの損得もないからうまい話で、ヤクザではなかった信長にハンコついてしまった・・・、まさかの成功でどちらかの履行しないと織田から責められるで済まない、決断しないと日本中にどちらもしない裏切り者になる。
織田信長を引き立てるために、“公家かぶれのヘタレ”というレッテルを貼ったのが現代人の愚かなところ。その多くは大河ドラマをはじめとするテレビ。歴史を面白おかしく捉えようとし過ぎていて滑稽。
来年は野村萬斎だし、退場は早かろうけれどアクの強い義元になると思ふ
三上博史さんの今川義元はかっこよかった。
室町幕府は義元上洛の見返りに何を約束したのですか?上洛の見返りに尾張の守護でも与えた。それを大義名分に尾張侵攻を。考えすぎですか。尾張を取ったあと、上洛ーーーという運びですか。上洛というのは道を開けてくれるようですし。桶狭間のような武力侵攻の、ようなことは。何もないのに上洛、上洛というのも。尾張を切り取りにいっているようにもみえますし。信長の時は伊勢。信玄には信濃ですか、三河ですか。まあ勝手な思い込みです。その時の将軍は足利義輝ですか?もしそうならその後の織田との関係は?このあと、尾張の守護の斯波氏はどうなったのですか。信長が上洛する際は伊勢を。信玄が上洛する際は信濃を。ということはーーーないですか。勝手な思い込みです。それとこれも思い込みですが。"塗り輿"というのは防弾仕様ですか?義元は大髙城へ向っていたようですが。織田に横腹を突かれたーーーということですか?
衛星写真を見ると桶狭間の地形は平地の中に丘が有り、大髙城、鷲津砦、丸根砦はそうですか。桶狭間はどうですか?今まで見てきた図のように小高い山がいくつもあり、その間を縫うようにとは。当時の地形は実際、どうなっているのですか。今まで、複雑な地形の山の中の戦いだと思っていたのですが。三河と尾張の国境にある山々を越えてやって来る今川軍を、地形を利用して防御する。思い込みかもしれませんが、ドラマも、小説もそのように?しかし衛星写真を見ると。そこかしこに小さな丘があり、平地での戦いとも?思い込みですか?それとーーー桶狭間山に義元の馬印があればどのあたりからみえますか?そのあたり。単なる思い込みだとおもうのですが。よろしくおねがいします。
義元を評価すればするほど信長の評価が上がりますね〜今川、武田、北条と優秀であろう巨大な三勢力が同盟を組んでいながらどれも天下を獲れなかったという…お叱りを受けると思うが戦国最強の三馬鹿同盟です😭只今、信長の野望新生をプレイ中なので特にそう思う…
2
仮に桶狭間に勝ってその後も順調に西へ勢力を拡げたIFの義元や、最晩年の信玄ならともかく、たぶん三者とも天下狙ってなかったように思います義元最後の尾張侵攻が上洛戦だったとも思えませんし
全てに置いて太原雪斎のおかげである
信玄は駿河の豪族を調略で、どの程度、取り込んでいたのですか?遠江の豪族に対してはどうですか。一方、家康は遠江の豪族をどの程度。信玄が家康と密約せず、あのまま攻め込めば、遠江の豪族は今川とともに戦うというカタチになるのですか。まあ、国境線が接していなければ圧力を加えて寝返らせることもーーー。それとーーー北条国境近くの豪族はどう動いたのですか?ここで信玄につけば北条に。大丈夫なのですか?教えてください。それでは信玄が駿河を取り、遠江と直接国境線を接するようになれば遠江の豪族も。
11:38 この日本人に対する評価・・・実は 第2次世界大戦時の・・・日本軍に対するアメリカ軍の評価・・・そのまま。特に 指揮官が戦死した後の日本軍部隊は全くの無力。絶望的な 竹やり突撃か 自殺で自滅。
今川義元の旗印、”丸の中に二の字”どこかで見たような気がします。明治維新が起ころうとしていた時代の坂本龍馬のものと同じ?であったかも?現代ではソフトバンクの孫正義氏の会社のロゴ?実にようく似ていますね。単なる偶然でしょうか?単なる私の好奇心です。🙄
私もどこかで見たような気がして調べ始めました!
今川義元は無能では無い。だけど油断し過ぎだよ
今川義元さんは戦場でピンチにあって逆境に立ち向かい続けた~金ヶ崎の退き口で織田信長さんはピンチに逃げましたし、本能寺の変で徳川家康さんも逃げ出した神君伊賀越えが伝わっています~ピンチにあっても決して逃げずに常に最前線で敵に立ち向かい続け、成功を掴み取った人は、天下人豊臣秀吉さんぐらい~?そう考えると、義元さんが生き抜いて逆転勝ちしていたならば、太閤義元さんが誕生していたかも~?義元さんの胸中に桶狭間で逆転勝ちするプランがあったか?はわかりませんが~
歴史にたらればはない
日本人というのはって言うのはどうかな?
一流だったとしたら、桶狭間で首を取られたのはどうしてかなと思います。どう見ても、ヘマではないでしょうか。
あ〜かわいい
そんなに素晴らしい武将が三人も揃っておりながら、どうして天下を獲れなかったのだ。もし、や、たらればの話をするのであればどんな話も出来る。要は武将として軍略に欠けるとことがあったと言うことでしょ。どんな人間でも探せば非常に優れた所も欠けた所もある。無理に盛った話を創らなくてよいです。
キリンさんは好きです、でも、ゾウさんはもっと好きです♡みたいに~今川義元さんは凄かった、でも、豊臣秀吉さんは規格外にハンパなく凄かった!ってことですね~
このコメンテーター、恰幅がいいし、脂ギッシュな顔して、よお自分視点で喋りはるわ
このセンセイは毎度毎度日本人をひっくるめて愚民扱いしてDisらないと話が進められないんですかね?
デブで極端に足が短く馬に乗れないので蓮台で移動。桶狭間で逃げ遅れた原因が短足だった。
その話、江戸時代中期以降の創作だってほぼ断定されてますよ。桶狭間の戦いでも、退却の際には馬に乗って移動しています。あと馬に乗れないから輿に乗っていたわけではなく、輿の使用を幕府に認められたという権力の誇示のために乗っていたのです。
おっさんえらそそう
論功行賞する人間が死ぬ=士気がだだ下がりで戦にならないというお話には膝を打ちました。
加来先生ありがとうございます。今川義元大好きな私にとって貴重な話しが聴けて良かったです。
加来先生の話はその時代に行って見てきましたって感じで話すので興味深いですね
加来先生有難うございます。今川義元大好き人間としては復権に感謝です。長い間、誤解されて来た義元像。戦国時代、最も天下に近い男であり、信玄にも信長にも師匠と仰がれる名将です。
結末で評価されるのは酷ですよね。明智光秀しかり。
一度、NHK大河ドラマの主役で観てみたいですね😊
今川義元の失敗の本質の分析はいかに。放送が楽しみになりました。中西さん本当によく勉強されていて、また控えめでもあり、頭が良い方ですね。
義元の死後、後を引継いだ氏真御館様の資質は・・・だが、後に徳川家康を頼り江戸幕府で高家待遇として生き残り、今川家の命脈を残した点は偉い。
統治者としては義元に劣るけど文化人としては細川幽々斎に勝るとも劣らない一流文化人ですからね
毎回楽しみに拝見しています。
加来先生のおっしゃるように、学校での授業は、点(つまり歴史的な拝啓や意義はともかく、
いつ・誰が・何をしたという事項)だけを学んでいて、この結果、歴史は暗記で点数を取る
科目と考えられていた所以です。
点と点から、もっと立体的に、俯瞰したうえで考えると見えてくるものがあるのですね。
ありがとうございます。
加来先生の歴史の話は本当に面白い。
あと分かりやすい!!
アナウンサーの方も聞き上手だし、進行が上手いから話がすっと入ってくる^ ^
素顔の履歴書も全部見てます(^^)
確か総大将が戦場で討ち取られた例は今川義元と龍造寺隆信の二人だけだったと記憶しています。
北条氏康が小弓公方を討ち取ってるぞ
武田元繁、陶晴賢
扇谷上杉の上杉朝定さん、美濃の蝮、斎藤道三さんも戦死です~
有名な話しで、信長は義元の刀に「義元捕縛時彼所持刀」と刻んで生涯持ち歩いていたとか。それほどに信長にとっての今川義元は強大な存在だったのだと思います。
三国同盟は戦国の世では珍しいお互い三者の本拠地が隣接しているのも面白いんだよね
あと、義元以外で戦場で討ち取られた大名は龍造寺隆信もそうですね
授業では桶狭間で数で劣る織田軍に討たれたとしか言われてないから弱小将軍みたいなイメージが強く残されてるんだよね。
専門家から聞く話は面白い。
足利将軍家と同じ家門の名家だからそれも大きく義元の力の一部でしょう 信長の凄い所は二度と奇襲攻撃はしていない、桶川は運が良かったと信長自身が良くわかっていた
3:25 ここで加来先生の言ってる「運良く鉄砲伝来の時期に行き合わせた信長が天下布武をやった」という視点は重要だな
尾張の海運に支えられた豊かな収入、鉄砲の製造拠点に近い本拠地、いくつかの幸運が重なったことで信長の軍事力が突出した
もし鉄砲が伝来していなかったら諸勢力の軍事力はもっと拮抗していて、群雄割拠の時代が長く続いた可能性が高い
そしてその群雄の中で甲相駿が中心的な役割を果たしていた可能性も高い
うーん、まあいろいろと研究された方の話を見ていると、割と敵が来そうなルートに人員配置はしてたみたいだからなあ。
本当にそこまで油断してたかどうかまではわからないと思う。
信長は当初は今で言うヒットアンドアウェイ戦法で今川軍を撤退させる事が目的だったが、運良く討ち取る事が出来たのが今の説
逆に浅井との姉川の合戦や本願寺との石山御坊の戦いとかで織田信長さんがターゲットとして戦場で狙われてますよね~
たぶん織田包囲網って持久戦を続けて織田信長さんが戦場に来たときに合戦や奇襲で織田信長さん個人の命を狙うという作戦内容だったんじゃないかな~?
それを織田信長さんも感覚的に知ってたからこそ、武田信玄さんや上杉謙信さんといった合戦強者と雌雄を決することを最期まで避け続けたような気がします~
信長包囲網にそんな高度な作戦はできないでしょうね。
精々狙撃や暗殺を狙うぐらい。
所詮各勢力の寄せ集めだから。
あと上杉謙信や武田信玄と戦わなかったってなんで戦う必要があるの。
信長は当初は両者と同盟してるし、敵対した時でも自領のそばの敵対勢力を無視して遠くの強い敵に戦仕掛けるなんて非効率やるわけない。
今川義元「我が矛先には魔物だろうと鬼だろうと敵うまい!!」
毛利元就の初陣が、西の桶狭間と言われる有田中井手の戦いで、敵の総大将、旧安芸守護家の武田元繁を討ち取っていますね。
こちらが桶狭間よりも40年以上も前なので桶狭間こそが東の有田中井手と言ってもいいんでしょうが、知名度に雲泥の差があります。
たしか武田元繁さんの一族から、安国寺恵瓊さんが出たという話を聞いたことありますし~
武田元繁さんも今川義元さんみたいな凄い大名だったのかも?知れませんね~
今回の質問、私もずっと不思議だったので教えて頂けて嬉しいです
今川義元さんはハンパなく凄い人だったと思うんだけど、大河ドラマで見たいのは、その息子の今川氏真さんですね~
徳川家康さんの少年時代の学友で、蹴鞠の達人にして和歌も超一流のスポーツマン兼文化人、今川家が滅んでからは鎌倉に京都とお気軽な諸国漫遊の日々~
最後は今川家を裏切り滅ぼした当事者である徳川家康さんに頭を下げて徳川家旗本高家筆頭としての地位を得て晩年を過ごすって凄くドラマチックだと思うんですが~
みなさん、どうでしょうか~?
自分も氏真の大河見てみたいです!
尊敬している父が急に戦死し、頼りにしていた仲のいい部下が離叛、同盟相手に裏切られお家滅亡。
色々なところを放浪し、父親の仇の前で蹴鞠を披露する。
色々あっていつのまにか離叛した元部下が天下人になってた。
でも高家になって天寿をまっとうしている。
とても深いテーマになるし、サラリーマンに刺さると思います!
元静岡県民ですが、今川義元をリスペクトしてます。
領土の3カ国に加え、家臣筋の北条五ヶ国、姻戚の武田信玄二ヶ国、上杉も今川の仲裁に従った事から北陸2ヶ国合わせて12ヶ国以上が今川派の勢力範囲とみなす事も出来、東国の覇者と言えると思います。
今川氏真も優秀な人材で、突然義元と雪斎のツートップと主だった重臣を桶狭間で失った事で武田信玄に負けてしまいましたが、義元だけであれば、雪斎の意見を聞いて他重臣の力を借りて、家康を先鋒に、武田信玄に勝った可能性は高かったと思います。敗北後も良き敗者として生き抜いた事は、何もせず滅んだ豊臣秀頼に比べると、極めて優秀な逸材だったと言わざるを得ないと思います。
主観ですよね。信玄が義元を兄のように慕ったとか。
加来先生は
詳しいですね☺
中西悠理さん元気そうで何より
義元公は影武者を配置していなかったのでしょうか?仮にそうなら油断があったのかもですね。
しかし偉大な先輩を破った信長公もわずかな護衛しか傍に置かなかったため、本能寺で討たれてしまいました。
失敗は繰り返されたということでしょうか・・・。
同感です。何とも皮肉な巡り合わせですね。
当時、他家と比べて今川義元さんの外交能力はピカ一だったのは紛れもない事実~
三国同盟もそうだろうし、武田信玄さんと上杉謙信さんの川中島合戦を仲裁したり、織田家と人質交換して徳川家康さんを今川家に迎えいれたりと~
四方八方に外交交渉できるコネクションを築いていたことが想像できます~
しかも、その交渉事を全て今川家の有利に進めてしまうその手腕は戦国随一の見事なもの~
天下人直前の秀吉さんや家康さんに匹敵する実績を残したと言えますが、当時の今川義元さんの領国、官位、幕府の役職を考えると外交コスパがハンパなさ過ぎで、外交の怪物と言っても過言でないと思います~
その外交ツールの重要なファクターとして、公家装束や豪華な御輿という今川義元さんの身嗜みが当時の地方武家社会の大人たちの度肝を抜くような効果があった可能性がありますよね~
それはもしかすると、織田信長さんが若い頃うつけ装束で駆け回っていたことが黒歴史として恥ずかしくなるような、別次元の政治的パフォーマンスだったのかも?知れません~
@@うちでのこづち-x6c
なるほど、確かに太原崇孚さんは、今川義元さんのブレーンとして別格だったと思います~
川中島合戦で上杉、武田両家を調停した際は彼の死後ではありますが、小説のように今川義元さんが彼の遺言どおりに動いた結果なのかも?知れません~
ただ彼の死後、今川義元さんが自ら朝廷に働きかけて後奈良天皇を動かし、宝珠護国禅師と諡されたことは他の戦国大名と一線を画する行動のように感じます~
そんな貢献した部下に対する真摯な姿勢が岡部さんや朝比奈さんという今川義元さんに命懸けで仕える男たちを生んだのではないでしょうか~?
そういった今川義元さんの人柄を踏まえると、味方にした他勢力からは恨まれて包囲網を作られたり、部下からも裏切られてばかりの信長さんよりも遥かに外交調略能力は高かったような気がします~
ただ、桶狭間の合戦においては信長さんよりも合戦能力と戦運が無かったために残念ながら首を取られてしまうので~
結局、戦国時代は生き残ることこそが全てですから、どんなに優れた指導者もサバイバル能力がなければ露と消えていくだけなんですよね~
なかなか興味深い義元論で面白いと思います。
ホンマにみる価値のある部分は・・・8:54 ~ 時間のない人向け。
「総大将が討ち取られると、評価される人がいなくなるから逃げる」
間違いではないが、「評価」を「恩賞」とした方がより正確だと考える。
戦国時代、武将・兵員が参陣し、戦場で奮闘するのは、戦後の恩賞を期待してのこと。
恩賞=領地・金銀
占領した敵地で略奪行為が許されることもあった。
総大将が死ねば、その時点で恩賞は絶望的になるから、総崩れになるのは当然。
別の言い方をすれば、恩賞を与える側と恩賞を貰う側=主従、とも言えて、
その契約は、総大将の討死で消えてなくなるわけだ。
自分の命を賭けて恩賞を狙う=ハイリスク・ハイリターンの最たるもの
ただし、「正義」「恩義」「友情」など形而上思考で戦をする武将も存在した。
それも事実だろう。
そんな義元を討った信長の凄さよ…。😅
((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
その信長が恐れた謙信、信玄の
凄さよ😁
@@天誅の名人 武田信玄「わし強過ぎかの」
上杉謙信「信長も存外弱いな」
人生のほとんどは運であると結論が出ています
義元が一流の文化人であり武将としても初代の海道一の弓取りであったことは常識だ。まあ家康と紙一重の運の差だったな。
総大将が合戦中に敵にやられたのは今川義元と肥前の熊くらいやな
首を取られた大将は、だと思います~
合戦中討たれた大名は結構いるハズですよ~
ううむ、将棋で王を取られても負けを認めないで戦い続ければ勝てるんじゃないかみたいな話で面白い。
今川義元の大軍が隘路を通って兵站が伸び切っていた。薄くなっていた義元の本営をピンポイントで信長軍が襲った。
おりしも天気は雨。義元には不運としか言いようがない。…ということだけど…
ただ、この時代に敵将の位置を探り情報戦に長けていた信長は、やはり一枚上としか言いようがないですね。
結局、そうなんですよね。戦場は何が起こるかわからないー
その鉄則を義元と側近は無視していたようです。
某大河ドラマで、人質時代の家康が雪斎から教えをうけるシーンがありましたが、実際はどうだったのか気になります。
桶狭間の戦いで完全に無視されている視点があります。それは桶狭間の戦いの時点で既に信長と敵対関係にあった、美濃斎藤氏がこの戦いにどう関わったのかという視点です。信長は桶狭間の戦いの翌月には美濃を攻めていますし、普通に考えれば義元と結んでいたか結んでいなくても漁夫の利を狙っていたかです。いずれにしても信長の軍勢のかなりの数は美濃方面に拘束されていたはずで、桶狭間の戦いにおける信長の戦術に大きな影響を及ぼしているはずです。
信長軍は道三に備える為、義元勢を屠ったあと超高速で清須に帰還したのですかね。なんか疾風ウォルフみたいでかっこいいですね。
道三死んでる
駿府城は実はサンドイッチ状態のお城です。今川の遺構、次の豊臣の遺構、今ある駿府城の完成形は明治維新まで続く徳川家康が祖師+今川人質時代の遺構の最終の形なんです。
サンドイッチマン、サンドイッチマン、俺らは街のお道化者~♪🏯
姻戚関係を使って駿河・甲斐・相模の三国同盟を構築し背後を固めた発想はもっと注目されて良いと再認識した。信玄が義元を兄と慕っていたので追放した実父・信虎を引き取ってもらったことにも繋がる。一方、駿河では軍師・禅僧の太源雪斎が松平元康を鍛えたことで、「駿河が人材教育センター」と言っても良い。動画の後半で説明のあった「負け戦」概念は自分の論功行賞を誰がしてくれるのか、以外に「粘着気質が無い特性」「上がダメなら自分らが奮起する意識が欠如」があるのではと思う。近代でも自分らが有権者としての自覚が希薄、特定の国会議員に「上手く(何とか)お願いしますよ」との「人任せ・上役任せ」で真の民主政治が発達しないことに繋がる。
本隊は沓掛、本陣は桶狭間。
義元は桶狭間に何人くらいの兵を率いていったのですか?
将棋と同じ、王が詰めば負け。
ホンマに義元は
桶狭間で酔い潰れ
寝ている隙に
撃ち倒されたのかな?
そんなわけないでしょ
今川義元は、同時代の織田、北条、上杉、武田と比べがちだが、名将だと思う。武田、北条も警戒して人質を出したり、政略結婚、条約同盟を結んでた程。又京都朝廷の繋がりも有り名門中の名門。他の大名は下剋上の謀略、暗殺、裏切りの大名になったが、今川氏は最初から守護大名です。本来なら朝廷、室町幕府の守護警護を任せられる位です。
又幼少期の家康に、家庭教師として雪斎長老つけたり、縁戚の瀬名姫を嫁がせたほど、先を見る目が有ったと思う。
将軍、足利義教さんに今川氏の天下一苗字を認められて以来、足利将軍家と同じく嫡男以外の男子は僧籍に入る伝統ですし~
一門とされる関口氏や瀬名氏が今川氏を継ぐためには、今川氏の断絶に幕府の許可と、他家から養子入りするのと同じくらい困難だったようですから~
逆に、今川という名への愛着は薄れると共に今川氏を支える一門衆である感覚も消えてしまった可能性はあります~
実際、政略結婚で今川氏と血縁関係を結んだ武田氏や北条氏といった余所者の大名家の方が、義元さんに近しい今川氏一門として幅をきかせていたようですし~
そんな中、今川の支柱たる義元さんが討たれたものだから、当主氏真さんを支えるよりも、さっさと見限る方に心が動いちゃったんかも?知れません~
そう考えると、天下の将軍家を後ろ盾に、お家騒動を抑止する仕組みを追求するのも、良かれ悪かれだったですね~悲
徳川家康からしても直属の兄弟子みたいなもんですもんね、雪斎和尚の弟子として
桶狭間は本当運悪かったな…
信長の戦術の凄さがわかるね
運が悪かったというか…信長も天気見て行動したでしょう
@@j3391晴れていたら信長は成すすべがなかったでしょう
織田 今川 戦争は
信長公記によると
織田2勝今川1分け
で桶狭間迎えた
かつ 今川義元は天下狙った訳じゃないでしょう
そこらへん触れてない
主に魅力があるから優秀な参謀がつくのです。義元がいかに凄かったか。
あれ、甲相駿三国同盟って北条がピンチから抜け出すために武田を頼り武田が北条今川の両者の間を取り持ったんじゃなかったっけ?
センゴク権兵衛の桶狭間戦記読んで義元イメージ変わった、漫画だとイケメンやし
最近その漫画読んだけど義元かっこよすぎでしたね
総大将が首を取られる・・・・ほかには・・・竜造寺 隆信・・・ぐらいか。
今川義元は桶狭間にどれだけの兵を展開出来たのか?
2万5千全軍を展開できたのですか?
おねがいします。
本隊は沓掛。
本陣は桶狭間ですか。
信長はあの辺りの地形は熟知していたのですか?
桶狭間に展開出来る兵はどのくらいかは分かっていたのかな?
それと大髙は。
糧道を断つために4つか5つ、付城があったと何かの歴史雑誌で読んだような。
今川の大軍が来たため鷲津、丸根を残し兵を引いていたとか、
うろ覚えですが。
確認おねがいします。
それならどうして鷲津、丸根に兵を残していたのか。
それで家康は無血で兵糧入れが。
とか。
今川が何故討ち取られたのか? 答えは「坊やだからさ」!!
徐々に儂の評価が変わりつつある...
義元の様な凄い男を打ち取った信長が凄すぎただけ、その後の活躍も頷ける。
桶狭間の結果に運も不運も関係ない。
じゃあ、未曾有の豪雨が無かったら信長どうしてたと思います?
夜襲かな?もしくは信玄上洛時の家康パターン?義元は是が非にも信長の首がほしい訳ではないだろうし。
織田信秀、斎藤道三、今川義元を3週連続で取り上げたのはいい企画だと思いますよ。悲劇の歴史人物「小栗上野介」「江藤新平」もお願いします🙏
日本人の性格だったとか、戦(いくさ)のルールだったとかよりも、総大将が打ち取
られるような時は相当な負け戦であり、また。総大将は絶対的な権力者だったからだ
と思います。
織田家は尾張統一したばかりで今川との戦いで動員出来る戦力も3000人ぐらいだと思う。今川は三国同盟中で2万人から2万5千は動員出来たと思う。やっぱり今川の気の緩みが原因だと思う。武田家が織田家に極秘に手助けしたとかって説はムリがある。武田家が駿河に進軍したのが数年後なんだから。
なぜ無事に信長が撤退できたのが未だに謎?
今川軍は範囲砲撃してる状態で奇襲は理想的だけど、逆に討ちった後に範囲砲撃を受けて脱出できない。
今川としては信長を討ち取れば最大の功績!
先鋒の松平軍が退路の確保かな?、でその後の織田と徳川同盟になる。
事前に退路の確保は、松平として成功失敗してもどちらでもいい、なんの損得もないからうまい話で、
ヤクザではなかった信長にハンコついてしまった・・・、
まさかの成功でどちらかの履行しないと織田から責められるで済まない、決断しないと日本中にどちらもしない裏切り者になる。
織田信長を引き立てるために、“公家かぶれのヘタレ”というレッテルを貼ったのが現代人の愚かなところ。その多くは大河ドラマをはじめとするテレビ。歴史を面白おかしく捉えようとし過ぎていて滑稽。
来年は野村萬斎だし、退場は早かろうけれどアクの強い義元になると思ふ
三上博史さんの今川義元はかっこよかった。
室町幕府は義元上洛の見返りに何を約束したのですか?
上洛の見返りに尾張の守護でも与えた。
それを大義名分に尾張侵攻を。
考えすぎですか。
尾張を取ったあと、上洛ーーーという運びですか。
上洛というのは道を開けてくれるようですし。
桶狭間のような武力侵攻の、ようなことは。
何もないのに上洛、上洛というのも。
尾張を切り取りにいっているようにもみえますし。
信長の時は伊勢。
信玄には信濃ですか、三河ですか。
まあ勝手な思い込みです。
その時の将軍は足利義輝ですか?
もしそうならその後の織田との関係は?
このあと、尾張の守護の斯波氏はどうなったのですか。
信長が上洛する際は伊勢を。
信玄が上洛する際は信濃を。
ということはーーーないですか。
勝手な思い込みです。
それとこれも思い込みですが。
"塗り輿"というのは防弾仕様ですか?
義元は大髙城へ向っていたようですが。
織田に横腹を突かれたーーーということですか?
衛星写真を見ると桶狭間の地形は平地の中に丘が有り、大髙城、鷲津砦、丸根砦はそうですか。
桶狭間はどうですか?
今まで見てきた図のように小高い山がいくつもあり、その間を縫うようにとは。
当時の地形は実際、どうなっているのですか。
今まで、複雑な地形の山の中の戦いだと思っていたのですが。
三河と尾張の国境にある山々を越えてやって来る今川軍を、地形を利用して防御する。思い込みかもしれませんが、ドラマも、小説もそのように?
しかし衛星写真を見ると。
そこかしこに小さな丘があり、平地での戦いとも?
思い込みですか?
それとーーー桶狭間山に義元の馬印があればどのあたりからみえますか?
そのあたり。
単なる思い込みだとおもうのですが。
よろしくおねがいします。
義元を評価すればするほど信長の評価が上がりますね〜
今川、武田、北条と優秀であろう巨大な三勢力が同盟を組んでいながら
どれも天下を獲れなかったという…お叱りを受けると思うが戦国最強の三馬鹿同盟です😭
只今、信長の野望新生をプレイ中なので特にそう思う…
2
仮に桶狭間に勝ってその後も順調に西へ勢力を拡げたIFの義元や、最晩年の信玄ならともかく、たぶん三者とも天下狙ってなかったように思います
義元最後の尾張侵攻が上洛戦だったとも思えませんし
全てに置いて太原雪斎のおかげである
信玄は駿河の豪族を調略で、どの程度、取り込んでいたのですか?
遠江の豪族に対してはどうですか。
一方、家康は遠江の豪族をどの程度。
信玄が家康と密約せず、あのまま攻め込めば、遠江の豪族は今川とともに戦うというカタチになるのですか。
まあ、国境線が接していなければ圧力を加えて寝返らせることもーーー。
それとーーー北条国境近くの豪族はどう動いたのですか?
ここで信玄につけば北条に。
大丈夫なのですか?
教えてください。
それでは信玄が駿河を取り、遠江と直接国境線を接するようになれば
遠江の豪族も。
11:38 この日本人に対する評価・・・実は 第2次世界大戦時の・・・日本軍に対するアメリカ軍の評価・・・そのまま。特に 指揮官が戦死した後の日本軍部隊は全くの無力。絶望的な 竹やり突撃か 自殺で自滅。
今川義元の旗印、”丸の中に二の字”どこかで見たような気がします。明治維新が起ころうとしていた時代の坂本龍馬のものと同じ?であったかも?現代ではソフトバンクの孫正義氏の会社のロゴ?実にようく似ていますね。単なる偶然でしょうか?単なる私の好奇心です。🙄
私もどこかで見たような気がして調べ始めました!
私もどこかで見たような気がして調べ始めました!
今川義元は無能では無い。だけど油断し過ぎだよ
今川義元さんは戦場でピンチにあって逆境に立ち向かい続けた~
金ヶ崎の退き口で織田信長さんはピンチに逃げましたし、本能寺の変で徳川家康さんも逃げ出した神君伊賀越えが伝わっています~
ピンチにあっても決して逃げずに常に最前線で敵に立ち向かい続け、成功を掴み取った人は、天下人豊臣秀吉さんぐらい~?
そう考えると、義元さんが生き抜いて逆転勝ちしていたならば、太閤義元さんが誕生していたかも~?
義元さんの胸中に桶狭間で逆転勝ちするプランがあったか?はわかりませんが~
歴史にたらればはない
日本人というのはって言うのはどうかな?
一流だったとしたら、桶狭間で首を取られたのはどうしてかなと思います。どう見ても、ヘマではないでしょうか。
あ〜かわいい
そんなに素晴らしい武将が三人も揃っておりながら、どうして天下を獲れなかったのだ。もし、や、たらればの話をするのであれば
どんな話も出来る。要は武将として軍略に欠けるとことがあったと言うことでしょ。どんな人間でも探せば非常に優れた所も
欠けた所もある。無理に盛った話を創らなくてよいです。
キリンさんは好きです、でも、ゾウさんはもっと好きです♡みたいに~
今川義元さんは凄かった、でも、豊臣秀吉さんは規格外にハンパなく凄かった!ってことですね~
このコメンテーター、恰幅がいいし、脂ギッシュな顔して、よお自分視点で喋りはるわ
このセンセイは毎度毎度日本人をひっくるめて愚民扱いしてDisらないと話が進められないんですかね?
デブで極端に足が短く馬に乗れないので蓮台で移動。桶狭間で逃げ遅れた原因が短足だった。
その話、江戸時代中期以降の創作だってほぼ断定されてますよ。桶狭間の戦いでも、退却の際には馬に乗って移動しています。あと馬に乗れないから輿に乗っていたわけではなく、輿の使用を幕府に認められたという権力の誇示のために乗っていたのです。
おっさんえらそそう